第338話

またいつかどこかで――
やっぱり、もうお別れなんだわ――
うつむいた私に母が言った。
「元気出して! 今日こうして遭えたんだもの! またもういちど、きっと遭えるわよ!」

第337話

しばらくして笑いが収まると、母は人差し指で目じりをこすりながら言った。
「ねえ、これ、おかあさんと裕子だけの秘密の合言葉にしない?」
「秘密の合言葉?」
「そう、またいつかどこかで遭えたとき、この言葉でお互いのこと、たしかめ合えるわ」

第336話

顔を見合わながら繰り返すうちに、なんだかおかしくなってきて、とうとう母と私は声を上げて笑い出した。
なぜだろう、こんなデタラメな言葉に、意味など無いはずなのに――

第335話

「ブライト幸せ……」
私もつぶやいてみる。
「ね? とってもすてきな言葉じゃない?」
と母。
ふたりで声を合わせ、なんどかつぶやいた。
「ブライト幸せ、ブライト幸せ……」

第334話

「ブライト幸せ、ブライト幸せ……」
母は首を傾げ、小声でひとりつぶやいた。
「あはは、なんだか幸せな気持ちになってきた」
母は目を細めて私を見た。

第333話

「えっと……あ、うん……」
私は返答に窮した。
「うふふっ、裕子って、ときどきおかしなことを言うわよね」
母は楽しそうに笑った。

第332話

こんどはウィンドウが下がり始めた。
「ブライト幸せ……って、なあに?」
母がドアから顔を出して尋ねた。

第331話

ウィンドウの動きが止まった。
ブライト幸せ――
どうして、そんな言葉が口をついて出たのかわからない。

第330話

あせればあせるほど、言葉が思い浮かばない。
このままお別れだなんて――
ウィンドウが閉じる――その寸前、私は母に向かって無意識に叫んでいた。
「ブライト幸せ!」

第328話

ドアを閉め、エンジンを回すと、ドアウィンドウが下りた。
「じゃあ、お別れね。 あなたの旅の無事を祈ってるわ」
開いたドアウィンドウの向こうで、母はにっこり微笑みながら言った。

第327話

タクシーの前に着いた。
母はポケットからキーを取り出し、運転席のドアを開けた。
助手席に工具箱を置き、運転席に乗り込む。

第236話

母はかがんでドライバーをしまい、工具箱を手に提げた。
タクシーに向かって歩き出す母のあとを、私はついて歩く。
なぜか、スラックスのうしろポケットに手をかけて、ひっぱりたい気持ちに襲われた。

第325話

ドアノブの具合を確かめ終え、母は私のほうを向いて言った。
「だいじょうぶそうね。 じゃあ、お母さんはこれで帰るわね」
「……うん……いろいろありがとう」
これで本当に母とお別れか――

第324話

「んっ――」
喉から漏れる声とともに、母のドライバーを回す手に力が入った。
「これでよし、と」
母はそう言うと、ドアに取り付けたノブを回しながら、なんどかドアを開け閉めした。

第323話

私も立ち上がり、器用にドアノブを取り付ける母を見つめる。
W.S.――はて? なんだろう――
わんこそば、和風サラダ、わくわくさせてよ、腋の下サラサラ――
あ、腋の下サラサラは、W.S.S.か――

第322話

「大丈夫よ。 ドアもノブも問題ないみたいだし」
母は答えて立ち上がると、ドアの内側にまわり、空いた穴に外側からドアノブを差し入れ、カチャカチャとドライバーを回し始めた。

第321話

「さ、じゃあ、そろそろドアノブを取り付けましょうかね」
母はそう言うと、工具箱を挟んで私の向かいにしゃがみ、ドライバーを取り出した。
「どう? すぐ付きそう?」
私は尋ねた。

第320話

――もしかして、わんこそば?
好物なのかしら?
と、母のドアノブを回す音が止んだ。